嗚呼、寅午人生〜模索は気を斬る〜

「寅」生まれじいちゃん&「午」生まればあちゃんのもとで育った「功」のワンオペ育自ブログ

2019.3.3 高校生(15-18歳)3

高校といえば、私は1年生と2年生の境目の3月下旬ごろから4月上旬ごろの1か月間、今となってはイチローで超有名なアメリカの都市に語学研修に行くことになりました。

 

一人だけではなく、クラスまるごと(英会話クラス2クラス合同で合計50名ほど)

の、修学旅行のような語学研修が始まりました。

ちなみに、このため「修学旅行」がなくなったことについて、生徒たちの間では何人かぶーぶー言う人がいてたんですが、私は「まあアメリカ行ったし別にいいか」と思っていました。

親をそもそもだまし討ちにかけてアメリカに行かせてもらったので、それの負い目もあり、修学旅行に行くとなればまたそれ相応の積み立てのようなものが必要だと高校生なりに気を使っていたと思います。

 

語学研修では、ホームステイ先がそれぞれの生徒にあったのですが、私の場合は老夫婦のところに行くはずだったのですがおそらく女性のほうが亡くなったので、男性一人の家に預けるわけにはいかないと、名前だけ聞くだけ聞いて結局その方に会うことはできませんでした。

それが、しかも飛行機を降りて、バスに乗って、語学の勉強をさせてくれる教会さんに降り立った瞬間に知らせられたので、ほかの人たちがどんどんホームステイ先のご家族に連れられて行く中、特に仲良くもない同級生の家の地下室(客室)がひとつ余っているということで、お世話になることに。

ただ、やはりアメリカに語学研修にまで来てお互いに日本語でしゃべるのも気が引けたし、それぞれなんとなく時間帯を分けて過ごしていたので、それ以降の同級生の記憶はあまりありませんでした。

そこには、16歳くらいの男の子と、5歳くらいの男の子がいました。

チェスの好きなホストダディがいました。業務用のようなでっかいオーブンでベーコンをカリッカリに焼く、美人のホストマミィがいました。

 

昼食は、ピーナツバターサンド(?)とバナナというのがびっくりしました。

日本ではごはんと玉子焼きと・・・といったオーソドックスなお弁当だったので、、

さらに、日本からお土産にと持って行った「ほうじ茶」に、「砂糖は入れるの?」と訊かれたので、とんでもない!といった反応をしたら、どうしてこんなに反応が大きいのかしらとびっくりされたのですがうまく返事できませんでした。(英語力ぇ・・)

兄貴のほうが、スキーの雑誌をくれました。彼なりの愛情表現だったのかもしれません。

一度、日本料理の店??に連れて行ってもらって、みんなお箸でうどんを食べていることが個人的に衝撃でした。弟君は単純に若すぎるため箸が上手く使えないとのことでフォークで食べていましたが・・・

その弟君は、「だいなそー」(恐竜)のおなかの細かい字を私が読めないこととか、ビミョーにデブってたことに対し、母親に「あのお姉ちゃんは物も知らないしおなかがおおきいねえ」とでも言ってたんでしょう、マミィが「めっ!」という話をしていたのを覚えていたり、、

それでも2週間後に新しいホスト先が決まって出ていく際、涙を流して頬にキスしてくれました。

ダディは、チェスの話が共通点だったので、チェスがんばれ!と、金と銀でできたチェスセットをくれました。

2週間ありがとう、と自分なりにメッセージを書いて渡したら、感激してもらえたのですが、同級生の視線がちょっと痛かったです。

 

余談ですがこのころにサリン事件が起き、後で親から「日本にいなかったのは良かった」と言われましたし、アメリカにもニュースが流れていたようで、新聞を見せながら「オウム」というので、鳥のオウムかな、つかこのオッサン誰状態だったのが今思ってもシュールです。

さらに、1月ごろに地震あったよねと話を振られ、マグニチュードと「震度」の違いが上手く説明できなかったのがもどかしかった。

「私のいた地域は震度5だったよ」と言いたかっただけなのに、マグニチュードの数え方なのを知らなかった、・・・知らなかった、、

 

そのころ近所にあったドラッグストアで、小銭を時間をかけてちょうど出す女の子がいると話題になっていたらしいこと、グローサリーストアでシリアル1こ買うのに小銭がなくなってしまい、やむを得ずトラベラーズチェックを出したところ、偽物ではないかとレジ係のおばさんに疑われ、店長に聞きにいかれたこと、カナダにみんなで「研修中の遠足」として行ったときに、一人でカフェでお茶飲んでたら「あんな小さな外国人の女の子が一人でいるわ、親はどこかしら」などとヒソヒソされたりとか

 

うん、まあ

 

2軒目のホストファミリーでは、1週間だけあずかってもらえることになりました。

星座の話とチェスの話が結構楽しめるなと感触を得た私は、星座の名前を覚えたりとか、聞こえてくるいろんな単語を辞書で引いたりなど、「とても勉強熱心ね」と言われました。時々訪ねてくる博識のおじさんが「siblings」という単語を教えてくれましたが、こいつ物を知らねえなあという顔つきだったのを記憶しています。

日本語でいうところの「ご兄弟は?」的なかしこまった言い方なんだと思います。

多分brothersとかsistersといういい方って、今思えば「おにいちゃんとかおねえちゃんとか弟、妹はいるの?」みたいな言い方なのかもしれないなあ

確かこの女性のファミリーの時だったと思うのですが、「上司」の家にホームパーティーに行く、ということが一度ありました。

その後、今年になって、アメリカ型の雇用形態では、ボスに気に入られなければ出世などに響くというので、ホームパーティーを上司と開いたりすることは日常茶飯事なのだと知ることになるのですが、当時は「上司とホームパーティーなんて、仲いいんだな」くらいにしか思わなかった自分・・・。

さらに、猫が何匹かお出迎えしてくれて、一匹、日本猫もいて、名前が「Princess」だったのが・・・

可愛い・・・

また、このお姉さん、また別のパーティーで急に消えたと思ったら

緑のウィッグをかぶって出てきて、私が「知らん人来た!!!」って軽くパニクってるのを喜んでいたりしましたねw

 

そして3軒目のホストファミリーは、シングルマザーと女の子の家でした。

結構食器などがたまっていて、洗おうかなと思ったんですが何日かに一度大掃除をするパターンの女性で、それはそれは見違えるほどきれいになりました。

「冷蔵庫のターキーは食べてもいいわよ」ということで、ターキーをむさぼり食っていたのを思い出します。

また、このころ、タイ米で作った「おかず」を、(日本でいう、豆を使った炒め物的なノリで豆の代わりにお米を使ったような)私が主食並みにがっついていたのが衝撃的だったようです。

離婚したと聞いていたのだけど、子供のために両親が集まる、というのはごく普通のようで、別れた旦那さんも合流して3人+私でチューリップ畑に行き、元旦那さんが娘さんを高い高いして写真を撮っていた記憶があります。

途中でスペースニードルの近くを通り、行きたいなあとなんとなく言ってみたのですが押しが弱かったようでスルーされましたw

 

あとなんか不思議な看板を見た気がしたのですが、それもうまく伝えることができず・・・

 

もう一度行くことがあればスペースニードルに行きたいですねえ・・・

 

そうそう、一人、この直後からどっかの北欧の国に留学で1年間行くことになり、3年生になる段階で「もう一回2年生やる」と言ったことが個人的に衝撃でした。

・・・が、まあ大学に入っても同級生なのに年上のお姉さんとかいたりしてそれはそれで衝撃だったんですが、、、それは大学編で。

 

ちょうどこのころ、イギリスの先生がMrビーンとか、カーペンターズを教えてくれて、カーペンターズの歌で英語の発音を練習し妙に上達した記憶があります。

ビートルズの曲もダンスの授業で使った気がしますが、この当時はカーペンターズのほうが先生的に(?)主流でしたねえ。

途中で任期満了でいなくなってしまうことになったアメリカ中部出身の先生のために、大きな大きなクマちゃんを、みんなでカンパして最後に贈ったりしたり、イギリスの先生主導でスコーンでイギリス式のティーパーティーを教室でやったり、異文化に触れることは結構ありました。

個人的に、教室の前の窓側にある英語の小冊子(読み物、ペーパーバック??)がなかなか好きで、そこでニューヨークが寒すぎて3か月ほどで出てこれる犯罪を犯すホームレスの話とか、時計と櫛のプレゼントの話などを読んだ記憶があります。

 

担任の先生は3年間同じ先生で、娘のようにかわいがってくれました。

大学受験にあたって、自信がない・・・という私に、がしっと肩をつかんで「自信がなくても信じるの!」と勇気づけてくださったのですが、、、

最後の最後まで私が進学できるように尽力してくださって・・・それにしても先生ファインプレーです。どっからあんな、短大の後期入学の日程なんか見つけてきたんだろう・・・

 

それのおかげで、無事合格し、今に至るのだから驚きです。

今となっては、英語の歌を歌うのに、この時に勉強した英語のリズムや発音などがすごく役に立っているのですから。

どこかでまたお会いできたらいいのになあと思います。

先生の年齢的におそらくまだ60代そこそこだと思われるので、学校こそ引退されたかもしれませんし、結婚で姓が変わっているかもしれないし、そもそも日本にもいらっしゃらないかもしれませんが・・・

韓流スター「少女時代」のユリに似てます。。。

2019.3.3 高校生(15-18歳)2

中学でまったく英語の勉強をせずに学年トップに立っていたので、高校になっても「高校は英語に力を入れているから、進学塾とかは行かないでいいと思う」というのが親子の共通認識で、ひたすらに独学しようと思ったのだが、これが良かったのか悪かったのか、第一志望の大学に落ちてしまう。第二志望は受かったのだが、「外国語学部」ではなく「文学部」だったので、やりたいのはコミュニケーション力が発達しそうな外国語の「スピーキング」「リスニング」に特に力を入れた学部での勉強だったので、第二志望は蹴ってしまった。あとで母親曰く「宗教のにおいがするから嫌やってん」とのことで、もしそこに行くといえば反対されたんだろうか。

このまま就職でもいいと思ったほど落ち込んだが、その大学の後期試験に再出願、それも落ちてしまい、受け皿がなくなったところで先生が短大の出願を持ってきて、結果的にそこに受かって、その代わりその中にあるエリートコースに入るために、入学後にもう一度テストがあるので、それを受けて絶対にいいほうのクラスに入ること、と念を押された。そしてその「過去の栄光」を背負って今に至るのだが・・・

 

それにしても、このころ、「受験勉強」というものをしなかったのが良かったのか悪かったのか・・・今となっては知ることもできないが

もし、大学で第二志望のところに行くと言い出して、親が反対したら、自分で一人暮らしをしながら学費を稼ぎながら生活する力は当時の自分にあっただろうか?と思うと、「あった」とは断言できない自分がいる・・・

 

当時はまだ叔母の家などは絶縁はしていなかったし、近所のおばちゃんなどに話を聞いてもらうという選択肢も今となってはあったように思うのだが、当時の私はそんなことを他人や親せきに相談するという選択肢は全くなかったので・・・

やはり、幼いころからずっと言われていた「世間様に申し訳が立たない」というのを真に受けていたのだろうか・・・と今は思う。

 

ちなみにここで女子高を選んだ理由というのが、まあ内申点的にも仕方がなかったというのもあるのだが、男子の皆さんごめんなさい、「男子はバカ」と思っていたので、大人の男性(先生)しかいない女子高に行こうと思ったのです。

まあでももう少し内申が高ければ、大学受験で受けようとした学校の、今となっては付属高校に編成されなおしたけど当時は独立した高校に行きたかったんですけどね。先生に「内申的に無理」と言われて、「ああ、そう」と普通に引き下がってしまったあたり、自己肯定感が低かったのは否めなかった・・・

 

って最後の段、中学編で書くべきでしたね。時系列がごちゃごちゃになって申し訳ないです。

2019.3.3 高校生(15-18歳)

ここら辺は特に英語に関する記載が多いのであるが・・・

オリジナルストーリーは、自分の年齢に合わせてどんどん年齢を重ねていくスタイルになり、22歳ごろまで続くのである。

高校生になってからWindows95が一大ブームになり、型落ちの「PC-9821」という型を叔母の見立てで、母がスポンサーで買ってもらったのがきっかけでパソコンにドハマりし今に至る。今でもほぼ毎日何かパソコンをいじっている。

このころにプログラミングに興味を持てばよかったのだが、その当時の私は家でパソコンができるだけで、タイピングゲームで魔女を飛ばすやつがあり、ピーターパンよろしくわざと低空飛行させたり落とす→ギリギリで拾うなど遊んだり、急にスピードアップしたりと結構自在に遊んでいてそれで満足してしまっていた。

女子高だったのもあるのかもしれない。今となっては真偽はよくわからないが、もし共学で誰か男子でパソコンが得意な奴がいれば張り合っていたのかもしれない。

(数年前「スカッとジャパン」という番組を見るようになって、共学の「スクールカースト」というやつが超怖いなと感じたので、共学でなくてよかったと胸をなでおろしつつ)

高校になると教科も細分化され、「文学」という授業があった。

文学の先生は「交換日記」をするような先生で、当時は無駄に頭のいい時期だったので(みんなも多分そうだと思うけど)、いわゆる「真面目系クズ」だったのかもしれないという疑惑はあるものの、まあバイクを盗みはしなかったが授業を無駄にボイコットしてみたりと、少女漫画を地でいくようなことをやっていた気がする。

無駄に頭がよく変に凝った内容のことについても、先生の返事はほのぼのとしたもので、今読むと結構面白かったりする。

このころも、いわゆる「連れしょん仲間」的なものを徹底的に嫌っていたのだが、帰国子女もそこそこいて、ボーイ(ガール?)スカウトにも所属するような品行方正なお嬢様も結構いたので、いじめというものはまったく存在せず、ただ私のような、団体行動を極端に嫌う者同士がパッと集まるという面白い現象が起きていて、特に団体行動で困ったことはなかった。もちろん、団体行動という名目で隠れて個別行動をとるわけで・・・

むしろ、本当に「仲のいい子同士」がパッと組んだ結果、そこに属しない人たちがちょうどいい人数いたのでね・・・

 

この時、隣の出席番号の、私より身長の低い女の子がリップを持ってきてトイレでぬりぬりしていて、「唇赤くない?」と突っ込まれると「そういう体質なんです」としおらしくしていたりするのが、怖っ!と思った。

また、服装チェックでは、私は相変わらず規定通りのスカートの長さで、短くしているほかの女子たちが次々と私のスカートを借りていくのでしばらくタオルを巻いて座っていて「意味ねぇー・・・」と思っていたのを記憶している。

他の子よりウエストも太かったしなあ・・・いろいろと便利だったんだろう

 

当時、携帯というものは家の子機とほぼ同じ大きさで、いつも携帯を持ってくる子がたまに「子機持ってきたあ!」と叫んでいるのが面白かった。

毎月のように美容院に行っては髪形を変えている女の子もいて、さすがに毎月というのは、みんな「お金大丈夫なんかなあ」とか「ちょっと美意識高すぎる?」とヒソヒソしていたが、明確に彼女をいじめるようなことはなかった。

その女の子とその隣の出席番号の子が仲が良く、「長電話してみない?」と二人で話していて、実際に電話してみた結果30分ともたなかったらしい。お互い、長電話してみない?と言ってみたはいいが、毎日顔を合わせているうえに、いわゆる「女子」な会話の仕方の二人ではなかったため、話が長続きしなかったようだ。

 

この時の学級委員長が、「お父さんにレポート書かされてん」という話をしていて、やっぱり、やれば親子でもレポートのような、いい意味で事務的な親子関係を築くことができるんやんか、という気持ちがむくむくと持ち上がってきた。

中学のころに読んでいた子育て指南書も、あながち間違いではないなと確信した瞬間だった。

 

中学のころのことだったか高校のころのことだったか忘れたのでここに書くが、家庭科の授業だったかで、理想の間取りと人生設計というものを書かされたことがあった、

その時は、耐震構造のことなど考えもせずに、一階はホテルのロビーのようにところどころ柱が立っている広々とした空間で、2階からバルコニー?テラス?のように1階をのぞきこめるような回廊めいたものを描いた記憶があり、「あけっぴろげでなんでも話せる家族」(だと今これを書いていて思った)を夢見ていたことがうかがえる。

・・・20代で結婚して翻訳の仕事をしながら、30代になったら行きつけのバーで「マスター~~~」と仕事の愚痴の一つも聞いてもらうような人生を描いていた気がするが実際は未婚独身の「バリキャリ(という名のフリーター)」である・・・

 

このころは、やはり周りの影響もあってか、女性の社会参加というものにすごく興味を示していた気がするが、今は未婚独身で動きやすい生き方をしている反面、自分のやりたいことについて時間が取れないのは人生を無駄にしている気がしてとても嫌なのだが・・・ここに書くことではなかったな。

 

 

 

2019.3.3 中学生(12-15歳)3

修学旅行で撮ったらしき写真は、笑っている写真はなかった。

それどころか、「何撮っとんぢゃヴぉけぇ!!!」と怒鳴りたそうな

自分でいうのもなんだが幼く純粋な顔だちを精いっぱいゆがめた顔で写っているのだった。

 

修学旅行という団体行動は本当に苦手だった。

また、このころ、小学校のころに某K式で3年分先取りで進んだ英語を

「暗号」のように解釈して、ク〇ガキなクラスメイトを見下したような、悪口のようなことを英語でひたすらしたためていた。

もともとゲーム脳だったようで、この「暗号」を覚えることに私は中学人生のほぼすべてを使い果たした。

学校では優等生?というか品行方正??というか、ともかく「生活指導」に引っかかるようなことは何一つしていないのだが、心の中では思いっきりグレていたかもしれない。

 

学校の先生的には一番見つけにくいやつだよなー・・・

「放っておいてほしい」と「かまってほしい」が紙一重なんだもんなあ

やりづらいわ。。。たしかに。。。

 

そして、15歳の時の国語の先生が、私の文章を見て「文集に載せたい」と言ってきたのだ。

小学校では、同級生の2学年下くらいの子が書くような文章しか書けなかったはずなのだが、何が先生の琴線に触れたのかがいまだによくわからない。

が、そのころから確かに学年文集(卒業後とかに見る類のやつ)に書く文章すらも、第一章、第二章といったようなストーリー性のあるものに変化していたのは確かかもしれない。

 

オリジナルで未発表の戦隊モノを意識したストーリーを、当時はパソコンもなかったので、せっせこせっせことノートに書いていたことで運用能力が上がったのだろうか・・・

 

なお、このころになると、なぜか母もオリジナルのストーリーを書いてることを知っていて(今思うと勝手にノートを見ていた恐れはじゅうぶんにあるのだが)

ドラマとかで奇妙な名前(今でいうキラキラネームのような)を見かけると「アンタが物語で使いそうな名前やな」などとわざわざバカにしてくるのがすごく腹が立った記憶がある。

 

このころから実は、完全なる「語学系」の片鱗は見せていたのかもしれない。

余談だが、社会科が得意な友人によると、「ひたすら教科書を読みこんで暗記していた」だそうで、そういう暗記の方法が通用しない人のほうがむしろ英語とか語学系が得意な傾向にあるらしく、そうするといわゆる「文系」というくくりは何なんだろうと思わざるを得ない。

 

そしてこのころは、無意識に自分のコミュ力というものにまったく自信がなかったのであるが、そのころの自分なりに、英語をもっと勉強したいという気持ちがあったので、無理を言って高校は英語を強化したクラスのある学校に進学させてもらったというのはある。

2019.3.3 幼少期の記憶(小学校就学前)2

保育園時代のことで少し思い出したことがあるので追記。

このころ、ピンクが好きだった記憶があるが、

母があまりいい顔をしなかったので、折り紙の時間だけは好きなピンクを思いっきり折っていた記憶がある。

 

それと、絵を描く時間の時に、人間の絵を描くことが凄く「申し訳なく」感じられて、にょきっと画面の端から手がのぞいているというホラー(?)な絵を描いていた記憶がある。

 

この時、保育園の先生が「こんな描き方をしている」と親に報告したのかどうかはわからないが、親が心理的に何かあるのかと疑うこともなかったし、私はそのまま保育園でレアキャラを続けた。

 

このころだったかどうかわからないのだが、私の記憶もないほど小さいころなので念のためここに書いておくが、実は私は歯科の矯正をするかどうかという話になったことがあるらしい。

 

そのために検査を受けたというのだが、検査だけで何万も持っていかれたとかで、歯科矯正は「大人になってやりたかったらやったらいい」という判断でいまだに私の歯はガタガタなんである。

そのためあまり口を開けて笑うことをしなくなったと思う。

2019.2.26 中学生(12-15歳)2

母親は完全に自室を荒らしにきていた。

小学校の時からだったのだが、勝手に部屋を掃除しに来る。そしてむしろ「邪魔だどけ」と言ってくる始末。

そして手紙を勝手に読んだり、勝手に部屋に入ってきて何をするでもなくベッドのふちに座っていたりと意味の分からない行動が多かった。今思うと少しはしゃべりたかったのかなと思うが、なぜに中学生のド反抗期に普通にしゃべってもらえると思ったのかは謎のままである。

まだこのころは祖母も元気で、祖母もたまに部屋に入ってくるのだがそれはエレクトーンを聴きたいから、という理由があり、いろんなものをガサゴソしたりすることもなかったのでよかったのだが・・・

 

そしてだんだん両親の「育児の仕方」というものに疑問を持つようになり、育児書を読み漁るようになる。

いわゆる「ほめて育てる」という本を手に取った時は、自分の仮説が正しいのだと鬼の首を取ったような気持だった。

いつだったか、何のことだったかは忘れたが、それまでは「親を論破してやろう」という野心に燃えていたが、何かのプチ事件で、「単に人の意見が聞けないだけの暴論者」であることに気づいてしまい愕然とした。

 

もうこのころになると軟禁はされなくなったのだが、ともかく父親の威圧が嫌だった。

某大手から出ている白い半そでシャツに白いパッチを履いて、まるで仏像かなんかのように鎮座して、私が「わかった」という意味のことを言うまで決して離さない。

なので、私もわからないのに「わかった」と言い、真剣には理解していないのに離す父親のことを正直あざ笑っていた。

なお、高校入試では初めて盛大に親をだましにかかる。

これが私の初めての、本格的な反抗かもしれない。

心の中は常に反抗期なのだが・・・

 

ちなみに、3年生のころは、某学園ドラマかな?と思うほど、「内申に影響が出そうな生徒や先生」をかき集めたクラスだった。

先生が「見返してやるぞ!!」と張り切ったためか、合唱コンクールで優勝した。

今思い出しても個性的で楽しいクラスだったと記憶している。

なお、授業参観で、私の隣にいたのが情報処理と体育しか出てこないいわゆる不良の男の子だったのだが、隣の子と組んでなんかやれという指令に、めんどくさそうにするその子と苦笑いで見ている母親の図というものがいまだに頭にこびりついている。

 

その子は結果的に中卒で近所の中華料理店に修行に入り、真人間(?)になったようだ。母親に付き合わされて何回か食べに行ったことがあるが、私としては正直気まずかった。別にその子が好きだったわけでもないし。

これは完全に母親の趣味で、年下のいとこにしろ、ともかく「やんちゃな男の子」が好きなんであるが、もう一人いたやんちゃな男の子が数十年後結婚して子供が生まれたと聞いたとき、「あの家の子ダ〇ン症なんやて。ちっちゃいときアンタいじめてた罰や」とほくそえんでたのが、わが親ながら気持ち悪かった。

 そのほかにも、障害のある方を見かけては「アンタあんなんならんでよかったなあ(あんな風にならなくて良かったわね)」とか気持ち悪いことを言うので戦々恐々としていた。

今思うと、不倫・・まではいかなくとも、その男の子目当てに、しかも娘をだしにして通っていたのかと思うと吐き気すら覚える。

2019.2.26 中学生(12-15歳)

中学に入るころ、私はとてもウキウキしていた。

いわゆる「中学デビュー」というものがあるかなと思っていたから。

小学校5年のころに、「電気アンマ」とでもいうのか、当時は「何やってんだこいつ」くらいにしか思わなかったが、小学校3年生の女友達にそれを仕掛けられひたすら困惑したのを覚えている。

数年後彼女をレズかと思ったのだが、数十年後無事男性と結婚したと聞いて安心したもんだ。

 

そんな事件もあったりしての中学生活・・・

元同級生成分は3分の1に薄まって、できるだけ他所の小学校からの子と仲良くするようにし・・・た・・・が

なぜか、2年生あたりから不登校の子を一緒に連れて学校に行くという任務を請け負うことに・・・なんで小学校が違うのに私が任命されたのかよくわからないのだが、

その子は女の子だけど、小学校の時同じ班で投稿していた男の子と同じ状況(出発直前に「う〇こ!」というやつ)になっていて、さすがに女の子なんでそういう言い方はしないのだが、よく体調を崩しては「今日は無理」と休んだりしていた。

某新聞の配達元?のおうちでもあり、母親はあまりいい気はしなかったようだが知らん。

数十年後社会人になってから商店街で働いているところに再会し、当時20歳年上と付き合っている感じになっていた私は「結婚するかも」とうそぶくのだがそれはまた別の話。

中学でも某プリント塾に連れていかれた子に今度は進学塾に誘われ、またのこのことついていく。母親、金払い良すぎだろ。

それも「引き立て役」と言われたが、結果的に英語では私のほうが結果を残したため、母親がほくそえんでいたのが性格悪いなと思った話。

 

ちなみにいかに「お友達が行くのなら」と沸いた頭でOKしたかというのは、

本気で私の成績を上げる気があるのなら、英語と数学で平均値をとってクラス分けをするようなその塾には絶対に向いていないことで、塾自体をやめるか、他の塾に行くかという選択肢が全く用意されなかったことでよくわかる。

 

このころ、母親がやたらと「女子」っぽい服装を勧めてくるのだがどうでもよく、服はたいてい祖母が買ってくれていたので、着もしないのにたくさんあるのが若干ゆううつだったと記憶している。

 

ちなみにこのころはもうエレクトーンはやめていた。

小学校低学年の欄に書くのを忘れていたかもしれないが、エレクトーンを習っていたのだが、先生の都合で辞めたのだ。そのあとどこで習うでもなく、家で一人で作曲したり、弾いていたりした記憶がある。

 

学校では英語だけ学年トップ、塾では英語をきっかけに進級、数学はやたら因数分解だけができるようになったものの偏差値29と言われ数学を完全に捨てる日々が始まった。

 

当時流行っていたアニメを参考に某戦隊を作り上げ、架空の人物を作ってはノートにしこたましたためていた。当時はまだこういったパソコンといったものはなく、ひたすら書いては消し、書いては消しまた書くといった感じだった。

 

結構内容は恐ろしいところまで及んでいたと思う。

たまたま自分で買いに行った「女子向けの本」のはずがいわゆるレディコミだったため、そのころから性的な何かが崩れてしまったのだと思う。

っていうか、制服着た子がそんなん買おうとしてたら止めてよ本屋のおっちゃん・・・

いや制服着てなくても、高校生になっても小学生?とか言われるこんな童顔の子がそんなん買いに来たら止めてよ。。。

おっちゃんはおっちゃんでロリだったのかと疑わざるを得ないだろうこれ。

 

また、それっぽい絵(ラフなやつだけど)を描いてそういうものがなぜ母親に見つかるのかと不信感を抱くきっかけになったのだが、まるでのび太が0点のテストを怒られるのと同じ構図で怒られたのが不思議でたまらなかった。