嗚呼、寅午人生〜模索は気を斬る〜

「寅」生まれじいちゃん&「午」生まればあちゃんのもとで育った「功」のワンオペ育自ブログ

2019.2.26 小学校高学年(10-12歳)

さて、この頃だったかな、中学への準備だとか言い出して、習字の時間だったか何かが、担任の先生以外が教えることになったのは。。。

いやでも消しゴムを忘れたことに対してずいぶん怖い先生だったんで、習字じゃなかったかもしれんな・・・

ともかく、なんでこんな急に?と思うくらい急激に厳しくなって「意味わからん」と思ってた記憶がある。

 

この頃から、「算数が得意」なとある子に、「恋に恋する年ごろ」ですから、意味不明にちょっかいかけてはみんなの前で豪快にフラれるといったことを繰り返していたが、特になんとも思わなかった記憶。

ただ、このころ、「音楽が得意」なとある子の誕生日を当日になって知って、その場で作った折り紙の鶴をプレゼントしたのだが、要らないと突き返され、その子のことを好きな他の女の子があざわらっていた記憶がある。

子供心に、「あげないよりましだろうに何言ってんだこの人ら」と思った記憶。

4年生では、生まれて初めて、そして最初で最後の「運動部」?である一輪車クラブに入る。この年、6年生の先輩と自主練で「手をつないで校庭を横切る」というのをやったときに生まれて初めて、そして最初で最後に「乗れた」。

ホントのガチで、これ以降は一度も乗れなかった。

そもそも自転車も補助輪なしで乗れないのによくぞ一輪車に乗ろうと思ったもんである。

 

あと、先輩をこかすまいと必死になったのが成功の原因だと思われる。

クラブ的には確か、あとの2年は料理クラブにいた気がする。とりあえず食いたかったっぽい。

 

このころと言えば、5年ー6年が学級崩壊していた記憶がある。

年老いた小柄な担任で、よく隣のイケメン先生と比べてはぶーぶー言う生徒たちが多かった。

 

そして私はというと、完全に同級生たちと接触を断ち、「学校には勉強しにいくもの」という淡々とした気持ちで学校へ行っていたのだった。

 

いつ頃から「話しかけても誰も返事しない」と思うようになったのかは不明ながら、孤独な小学校生活を送っていた。

 

なお、幼少期で書くのを忘れていたが、河川敷に自転車の練習(補助付き)に行ったところ、チカンに遭遇したが、自力で逃げ切ったのを覚えている。

あの時殺されていてもおかしくなかったのになあ・・・

そして、6年生のころだったか、通学経路上でガチで胸をもまれたという記憶があり、婦警さんにそれはそれは事細かに状況を説明。

・・・体力さえあれば警察向きの性格なのかもしれない。

余談だが、私の本名では看護師さんや美容師さんがとても多い。

 

そして6年生では、3年生のころ転校生として入ってきた子が某プリント式の塾に誘ってきたので、親に相談するともなく相談したら一緒に行くことになったが、肝心の算数はほったらかしで英語にハマり、この1年間で3年間の勉強を終えてその後の人生に影響を与えた。

ただし、母親曰く、その子が私を引き立て役にしたかったらしい。

 

ちょうどこのころだったか、祖母が循環器の疾患の関係でなかなか早く歩けず、買い物を代わりに行った・・・のならいいのだが、ご丁寧に一緒についていったりすることも多かったことを記録しておく。

 

あと、百ます計算?だったかが超速い男の子がいて、「何がそんなに楽しいのかなあ」と冷めた目で見ていたが、私は私で漢字ドリルを速く解くのが楽しかった、という矛盾した心理に支配されていた。

ちなみにその男の子が、転校するとなって大泣きして去っていったはずなのだが、親が「あと少しだから」と思ったのか、その子が「友達と離れたくない」と泣いたのかは知らないが、結構な距離を定期で通学して転校は思いとどまったらしく結局卒業までいたことを記憶している。

 

このころ、服装検査?で、爪が長いと言われ切られたのだが、この時に深爪にされてしまったことで、今になっても深爪で困っていることを付け加えておこう。